新聞を読んでいたら、ハングリー精神を忘れた日本人、という言葉を目にした。技術だけは残っているから、それを活かす、というようなことが書かれていた。その発言の主は日本に帰化した外国人のサラリーマン社長だったので、生粋の日本人である私は余計なお世話なことを語っておられるなと感じたが、客観的な視点からの意見にも思えて、腑に落ちる気もした。
ハングリー精神というのはある種の不快な環境下で努力することで身につくが、誰だって一度はそのような環境で頑張った時期だってあったと思う。私は八王子で暮らしてきたが、交通が不便な地域もそれなりにあることを実感していて、通学や通勤で苦労した経験が自らのハングリー精神を養うのに不本意ながら寄与したかなとしみじみする。最寄駅まで辿り着くのが遠い、都心方面の電車に乗っても目的地まで時間がかかる、そういう移動条件は、他の地域の”東京都”に住む同僚や同級生や友人と比べるとハンデを背負ってる気持ちになった。千葉県のニュースだったが、通勤時間帯の京葉線快速の本数を減らし全て鈍行にすると独断で鉄道会社が決定し発表されたとき、沿線沿いの千葉県知事や習志野市長がその決定に不服や異議を訴える場面があり、決定が改められたが、交通格差を感じている市民のために行政の長が意見してくれるのだなと感心した。八王子市の都心までの交通事情は千葉県の自治体と似たような部分があり、同じく死活問題たりえる。
ハングリー精神の話に戻せば、私たちは不便な条件を見つけては、鉄道の件のように改めて、できる限り快適に暮らせるように改善を重ね尽くしてきた。不便な点がなにもないほど是とされて、それが社会が発展するということでもあった。誰しもが不便なく生活できることを目指して働いて、今日の日本があるのだから、この先もハングリー精神が必要な不便な社会に逆戻りさせないために私たちは頑張るだろう。ある程度の洗練された国や都市で生きる限りそれらの精神をなくしていくのは当然起こることだ。そして、ハングリー精神がないと決めつけられた日本人が貧しくなるのを許す社会であってもいけないと思う。